頭のいい子に育って欲しいんです。
それは別に成績が良いということではないんです。
成績は一つの数値であって、そりゃ良いに越した事はないのだけれどね。
本質はそうじゃなくて。
ようは「考えられる子」になって欲しいと思うのです。
今日はそういう子に育てたいと思うあたしが思うこと。
専門知識も経験もまだない私が、出来うる限りで育てる娘の教育について。
ちょっと語る。
暇なお人だけお付き合いくだされば光栄です。。。。
いつもすみません。
私は学校の道徳の授業を見ていると、なんだか薄気味悪くなってくるのです。
洗脳されているような気分になるのです。
授業中は関係ないお喋りしてはいけない、とか。
悪いことをしたらごめんなさいを言いましょう、とか。
それは誰かに紙面で教えて貰うことなんだろうか?
一様に「いけないこと」を紙面で習った結果。
「なんでいけないのか」をすっ飛ばしてただ「いけない、いけない」と騒ぐ。
「学校に遅刻しちゃいけない」
「なんで? 」
「いけないから」
そんな理論。
たまにはみ出してる子を非難するようになる。
「あー、これもってきちゃいけないんだー」
「あー、こんなことしちゃいけないんだー」
いけないの? どうして?
やっぱり、
「いけないから」
ってことしか答えられない。
答えられないのに、非難する。
そういう教育では、いじめなんてなくならないんだと私は思うんだよね。
だって考えてないもの。
「いじめ」って定義なんて、大人が「考える」ことで、子供は何も考えてないもの。
いじめ、楽しいよ。
一人の子がずぅっと鬼しててくれたら、鬼ごっこ、楽しいよ。
いっつも特定の子がビリになってくれる徒競争は、自分が最下位になる心配がないから楽しいよ。
親に怒られて溜まったイライラを、誰かにぶつけたら楽しいよ。
「仲間外れにしてはいけません」
って道徳で習って、言葉で
「仲間外れにしてもいいですか? 」
って聞かれたら、
「いけません」
って答える。
でも、
「私は○ちゃんと二人組みになりたいし、△ちゃんは■ちゃんと組むんだよ」
結果的に一人ぼっちになる子がいつも×ちゃんなの、仕方ないよ。
これは「仲間外れ」なのかどうかなんて、考えるわけがない。
だから、そうじゃないんだと思うんだよ。
紙面で教えられる「良いこと」「悪いこと」じゃなくて、
そんな時、
「みんながイヤな思いをしてないかな? 」
そう考えることが出来れば、
「あ、いつも×ちゃんが一人ぼっちだな」
って気付く子が出て、
その子が、
「今日はどうしても○ちゃんと組みたい」
と思えば×ちゃんが一人ぼっちで、
「いつも×ちゃん一人だから、たまには譲ってあげよう」
と思えば自分が一人ぼっちになる。
自分ばっかり一人になるのがイヤなら、
「みんなで順番こしようよ」
と言えばいいし、それに文句が出るようなら、
そこで初めて
「自分のことばかり考えてちゃいけないんだよ」
って非難が出ればいい。
問・なんで自分のことばかり考えちゃいけないの?
答・誰かイヤな思いをする子がいるから。
これは健全なことだと思う。
答・いけないことだから。
ではない何か考えた結果がそこにはある。
「組みたい子同士で組むのが一番! 」
そういう考えだって、アリでいいし、
そうなのだとしたら、喧嘩に発展しても私はいいと思うんだ。
一人になりたくない気持ちと戦う。
人に譲って自分が一人になる自己満足を得るのか。
自分だけよければいいというレッテルを引き受ける代わりに一人にならないのか。
そういう人同士の摩擦の中で、子供は対人関係を学んでいけばいい。
どっちだっていいんだと思う。
譲れる子が良い子で、譲れない子が悪い子じゃない。
譲れる子はその場面では譲れるだけであって、他の場面では出来ないこともあるだろうし、
譲れない子は、それだけはどうしても出来ない代わりに、何か他のことをしてあげれる子になればいいんだと思う。
それが多様性ってやつじゃないの?
「こうできないから悪い」
「これができるから良い」
そういう考えを押し付けるから、歪むんだ。
例えば小学生の場合、
他者を傷つけてしまった場合、必ず「ごめんなさい」って出るよ。
それがいえない場合には、何らかの事情があるよ。
1・まさかそうなると思ってなかったので、自分でも驚いててごめんが言えない。
2・いけないことだと思ってはいるが、周りに攻め立てられてごめんが言えない。
3・見た感じ大した怪我でもないと思うから、なんで謝らなくちゃいけないのかわからない。
原因がわかること。
1なら、とにかく本人が落ち着くことが出来れば、その後自発的に謝ろうと思えるだろうし、
2なら、ひとまず周囲と隔離してから落ち着いて貰えばいい。
3なら、認識の違いを説明すべきだし、人の感じ方はそれぞれであることを理解させなくては謝罪する気持ちには到底なれないと思う。
なぜそうなるのか。
そういう原因を自分の中でうまく考えることが出来ること。
子供の教育で必要なのはそういうことではないかと思うんだ。
ルールを守ることの大切さがわからない子に、
ルールを守れと言ってもあまり意味がない。
それなら、そのルールが適用される場所には出向けないことを理解させる方が大事。
なんか話が段々ずれてしまって来たけど。
ようはそういうことだと思うのです。
学校は決められた時間で決められたカリキュラムをこなす義務があるから、
そういう細かいことにまで目を配れないこともあるんだと思うの。
だとしたら、やっぱり親としてそういう部分を補ってやらなくちゃいけないんだろうなぁとたまに思う。
考えられる子。
我が子が考えられる子かどうかと言うと物凄く自信がないのだけど、
2年生頃になってようやく
「どうして」
という言葉が頻出して来た。
それは言葉を覚えたての2歳や3歳児にあるような「なんで」期とはまた違って、
世の中の仕組みや構造を理解する土台になる部分だと思うの。
考える根底になる部分、とでもいうのかな。
例えば
「すき家ってなんですき家っていうの? 」
そんなの知らねぇよ!
と思わず返したくなる問いも多いんだけど・笑。
「いや、私もわかんないし」
って答えちゃうことも半分位はあるけど、
出来るだけ「一緒に考えるよ」
って姿勢を見せてあげられたらいいなぁと思うのです。
そういう礎を築くことが「考えられる子」になる元になるだろうし、ね。
そして、考える為には考える為の「色んな材料」が必要で、
その「色んな材料」が「経験」なんだと思うのです。
それについてはまた今度。。。。
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