あれは娘が何才の頃だったんだろうか。
幼稚園に上がるか上がらないか。
多分、そんな頃の出来事。
100円ショップで縄跳びをせがまれて買ってやった。
買った直後に袋から出して、
まとめて縛った先の輪っかに手首を入れて、
ぶんぶん振り回しながら歩いた。
片方でママと手を繋いで。
「あれがね・・・」
とか
「それでね・・・」
と色々お話しながら歩いた。
が、ひょんな所から縄跳びが飛んだ!
遠心力に自身の手首が支えきれなくなったんだろうか。
とにかくその縄跳びは大きな弧を描いてアスファルトの道端に叩きつけられた。
ガシャンッ。
「ごめんなさい!!! 」
半べそになって娘は大きな声で叫んだ。
縄跳びの持ち手は粉々に壊れていた。。。。。
100均の縄跳びなんて安かろう悪かろうなんだろうし、
少し放ったら壊れたなんて別に娘が悪いと私は思っていない。
が、
娘は誰に何も言われることなく、
瞬時に謝罪した。
常日頃、もごもごとしか人とお喋りの出来ない内気でおとなしい娘が。
マイペースで人に促される前に何一つ行動を起こせない娘が。
声を大にして私が状況を把握するより早く、
「ごめんなさい! 」
と叫ぶ。
私はこの時の出来事が強烈に印象に残っている。
人はこの衝動をきっと、
「罪悪感」
と呼ぶのだと思ったから。
ママに促されなくても、
誰に言われなくても、
自分で「悪い」と思った事には自発的に謝罪の言葉が出る。
申し訳ないという気持ちを味わうのだ。
あんなに小さな娘が自然とそういう行動が出来るものなんだって知った時、
小さいながらも自分の中に「善」と「悪」を持っている事を知った。
「悪」を知らなきゃ「ごめんなさい」を言う事は出来ない。
だから私はこの10年、
娘に何が「悪」で何が「善」かを教えた。
私の基準で。
私が思う「悪」。
私が思う「善」。
結局、善悪に世界基準なんて存在しないのだから、
その人その人なりの善悪で判断するしか方法はないのだ。
だからこそ親は罪深い。
子供の善悪の根底を教える基準は、他ならぬ親だから。
「それは本当に悪なの? 」
「それは本当に善なの? 」
同じ行為でもその時によって善悪は変わるし、
同じ想いでも、受け取る側によって善悪は変わる。
間違われやすいのだけれど、
正しい事を正しくしていれば善になるなんて法則はない。
だから私はひたすら娘に「寛容」である事を説いた。
10歳になった時、
私は娘に判断基準を押し付けるのは止めた。
100パーセント止められてはいないかもしれないけど、
でも少なからず、
私が良い悪いを判断して娘にジャッジを下すのを止めた。
「半分大人になったから、アナタに自分で判断する自由を与えます」
私が教えて来た善悪を元に、
これからは娘が考えて独自の善悪を築いていく。
きっとうまくいかなくて、
不用意に相手を傷つけて自己嫌悪に陥ったり、
慰められて惨めな気分を味わったり、
どうしようもない罪悪感に苛まれる日々が待っているのだろう。
でもその負の感情を持っていることが、
人間の深みになる事を私は知っている。
考えても考えてもどうしても答えが出ない時は勿論助けてやりたいと思うけど、
でもきっと、「助けて」あげることなんて出来ないんだろうとちょっと思う。
だってその頃、
私の善悪と彼女の善悪は少しずつ違うものになってきているのだから。
人はそれを「自立」と呼び、「自我」と呼ぶ。
どうかどうか、
深遠のハザマで思い切り悩める子になって下さい。
その深さが、
人間としての深さなんだと私は思っています。
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